James B. Lansing物語

世界有数のスピーカーブランド、JBL の創設者、ジェームス B.ランシング。彼の歩んで来た歴史は、常にラウドスピーカーを主役として発展して来た オーディオ 産業 の歴史そのものと言えます。ジム・ランシングの波瀾に満ちた生涯と、 JBL ブランド発祥の歴史を辿ってみましょう。

ランシングの生い立ち

ジェームス・バロー・ランシング(James Bullough Lansing)は、1902年14人兄弟の9番目の男の子として生まれました。幼い頃から電気や機械に異常な程の興味を示し、12歳にして独学で小型無線送信機を作り上げますが、その電波があまりに強力であったために海軍無線局にキャッチされ、解体を余儀無くされます。彼はビジネスカレッジを卒業後、母親の死を機に家を出、ラジオ放送局の技師として働き始めます。

ランシング・マニュファクチャリングの設立

ジェームスは当時のラジオの音が余りにひどいことに嫌気がさし、その改善のためにスピーカー製造を思い立ちます。そして1927年、ロスアンジェルスにランシング・マニュファクチャリング(Lansing Manufacturing Co.)を設立します。ジェームス25歳の時です

世界初の映画音響用スピーカー シャラホーン・システムの開発

彼が会社を起こした丁度その年、初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」が上映され、無声映画からトーキーへと時代が移行します。映画産業界から新しい映画音響用の強力なスピーカーが必要とされ、その依頼を受けたジェームスを中心としたチームは、世界初の本格的映画上映用スピーカー、シャラホーン・システムを完成させました。シャラホーン・システムは、映画産業界にもたらした大な功績によってアカデミー賞の技術賞を授与されます。

  • 若き日のジェームス・バロー・ランシング

  • 初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」

  • 本格映画上映用スピーカー シャラホーン・システム

世界初のモニタースピーカー、アイコニックの開発

さらに、ジェームスはシャラホーンの技術を小型2ウェイのシステムに凝縮した世界初の本格的なスタジオモニター、アイコニックを開発します。その後の2ウェイ・モニタースピーカーの原形となったこのスピーカーシステムは、映画産業界のみならず音楽産業界にも大きく貢献しました。こうしてジム・ランシングの名声は瞬く間にプロフェッショナル音響の世界に知れ渡ります。

アルテック・ランシングの誕生

ちょうどその頃、ウエスタン・エレクトリック社から独立したばかりのアルテック・コーポレーションは、自社で新しい音響製品を開発するために、映画産業において業績のあるジェームスに誘いをかけます。彼の会社はアルテック・コーポレーションと合併し、彼自身は技術担当副社長として新会社に迎えられます。1941年、ここにアルテック・ランシング・コーポレーション(Altec Lansing Co.)が誕生します。

アルテック・ランシングにおけるジェームスの功績

経営基盤の安定したアルテック・ランシング社において、彼の才能が開花します。彼はフラットボイスコイルを高速で巻き上げる技術や大口径のアルミニューム・ダイアフラムをドーム状に整形する油圧成形法など、今日世界中のスピーカー製造メーカーが用いている技術の基礎を開発しました。そして、アルテックのモニタースピーカーに搭載されこの後30年以上にわたりシェアを独占する事になる傑作ユニットALTEC 604型同軸スピーカーや、アカデミー公認のワールド・スタンダードとして永年世界中の映画館で活躍するALTEC A2〜A6ボイスオブシアター・システムなど、在籍した5年間でアルテック・ランシング社の礎となる技術や製品群を開発し、アルテック・ランシングの名をプロ音響の世界に轟かせました。

  • 世界初本格的スタジオモニター アイコニック

  • 新会社 アルテック・ランシング・コーポレーションのロゴ

  • ALTEC A2 Voice of the Theater System

ランシング・サウンド・インコーポレーション設立

アルテック社との5年間の契約期間でジェームスは使命を全うしますが、彼自身はいつか自分の手で「プロ機の性能を持った美しい家庭用のスピーカーシステム」を造ることを夢見ていました。アルテックとの契約終了後の1946年10月1日、ジェームスは自らの新会社、ランシング・サウンド・インコーポレーテッド(Lansing Sound Inc.)を設立します。これがJBLのルーツとなります。

ジェームスBランシング・サウンド・コーポレーションへ

しかし、彼が前身であるランシング・マニュファクチャリング時代から用いて来た「ランシング」という商標は、アルテック社との合併によってアルテック・ランシング社に帰属しており、また彼の業績によってあまりに有名になり過ぎたため、新会社の名前に用いていることに対してアルテック社から抗議を受けます。そこで彼は自身のフルネームを用いたジェームスBランシング・サウンド・インコーポレーション(James B. Lansing Sound Inc.)と社名を改めます。そして、“Jim Lansing”の商標は製品の圧倒的な性能によってその価値を高めて行きます。日本において、古くからのJBLファンが親しみを込めてJBLを「ジム・ラン」と呼ぶのは、当時の呼称がすでに日本にも広く知れ渡っていたことを示しています。

ジェームスの死を乗り越えて

ジェームスの製品がその高い能力と信頼性によって日増しに評価を高めて行く中、彼は突然不慮の死を遂げます。彼の製品にかける情熱と人柄に惚れ込み、彼を支え続けてきた共同経営者のウィリアムH.[ビル]トーマス(William H. [Bill] Thomas) はジェームスの意志を受け継ぎ、残されたスタッフ達と一丸となって会社の再建に当たるために二代目社長に就任します。彼は音響技術や物理工学など、その部門部門に通じた専門技術者達を雇い入れることで一人の天才の代わりを果そうと考えました。そして、トーマスの経営手腕とジェームスの残した技術という大きな遺産、そして彼の意志を受け継いだスタッフ達の情熱によって、会社はその後大きく発展を遂げることになります。

  • ランシング・サウンド・インコーポレーテッド時代の製品カタログ

  • “Jim Lansing”の商標を用いた製品の広告

  • 二代目社長に就任したウィリアム H. トーマス

JBLブランドの誕生

トーマスは、ジェームスの「優れたスピーカーはその外観にもそれが表れるべきだ」という信念を受け継ぎ、新たな魅力的な製品を次々に世に送り出して行きます。1950年代半ば、ジェームスBランシング・サウンド・コーポレーションの業績が上がり、「ジム・ランシング・シグニチャー・サウンド」という商標が不動のネームバリューを持つに到り、アルテック・ランシング社は依然ランシングの名前が使われていることに再び抵抗を示すようになります。しかし、会社はジェームスの死を乗り越えて、全社一丸となって復興を成し遂げたばかりです。トーマスはジム・ランシングの足跡を何とかブランドに残したい、と幾度と無くアルテック側と紳士的な話し合いを続けた結果、James B. Lansingのイニシャルを大文字で表わした「JBL」をブランド名として用いることを決めたのです。そして、ジェームスの偉業に対する深い感嘆の念を込め、そこに感嘆符を用いたのだと言われています。

ウーファーユニットのポットに付けられたジム・ランシングのラベル

ジェームスの偉業に対する感嘆の思いを込めたブランドロゴ

新たなJBLロゴのデザイン

1967年、JBLブランドのさらなる発展と市場認知を図るため、JBLの傑作スピーカーParagonやLancer 101、SG520アンプなどのデザインを手掛けてきた工業デザイナー、アーノルド・ウルフ(Arnold Wolf)により新たなJBLロゴがデザインされました。スクエアな枠を用いたこの新しいJBLロゴにも、ジェームスの偉業を称えるように感嘆符が添えられています。

新たなJBLロゴのデザイン

主にコンシューマ製品用に広く用いられるロゴ。シリーズによりバックや文字に黒、シルバー、ゴールドなどのバリエーションがある。

主にコンシューマ製品用に広く用いられるロゴ。シリーズによりバックや文字に黒、シルバー、ゴールドなどのバリエーションがある。

主にプロ製品に用いられてきたオレンジロゴ。車載用や一部のコンシューマ製品にも用いられている。

主にアクティブスピーカーやヘッドホンなど小型モバイル製品やPC関連製品に用いられる枠なしロゴ。

新たなJBLブランドロゴを考案した工業デザイナー アーノルド・ウルフ

そして、現在JBLはホームオーディオやプロフェッショナル・オーディオからカーオーディオ、パーソナル・コンピューターやモバイル用のスピーカー、ヘッドホンに到るまで、ありとあらゆる用途のスピーカーを手掛ける、世界有数のオーディオブランドに成長しました。しかし、JBLの姿勢は今もジェームスが居たあの時代と何ら代わることはありません。プロの現場で培われた確かな技術に裏打ちされた、高い能力と信頼性、そして、美しい外観を持ったスピーカーシステムを造り続けることこそ、JBLの誇りなのです。