京都・鴨川。夜ふけでも賑わう三条を尻目に、三条大橋から東山へと向かう。通り沿いの窓からやさしい灯りがこぼれるモダンな佇まい。控えめな看板を頼りに重たい扉を開けると、右手にカウンター、左手にグランドピアノ、そして「4320」が鎮座していた。
年季の入った梁と奥行きのある空間、艶やかな床が続き、その奥には坪庭が設えられている。東京のジャズバーにはない、しっとりした雰囲気が漂う。
「明治の末期、1912年に建てた町家を改築して、2005年11月25日にオープンしました」とは、ご店主・橋本徹雄さん。ここはご実家の写真館だったとのこと。店名の「HANAYA」は、かつての「ハナヤ写真館」の名をそのまま受け継いだ。だからか店内にはカメラにちなんだものがチラホラとディスプレイされており、クラシックカメラファンにとってもおもちゃ箱のように愉しめる。
橋本さんご自身は、ニュースカメラマン(スチールとムービー)としてテレビ局に勤務していた。だが、健康上の都合で早期退職。第二の人生はどうして暮らしていこうかと奥さまに相談すると、料理好きの奥さまが食事を提供し、橋本さんは趣味で持っていたLPとオーディオを活かして、この素晴らしい音楽=ジャズをたくさんの人と楽しみたいと、「HANAYA」をオープンしたのだった。
「アメリカの刑事ドラマ『鬼警部アイアンサイド』が好きでしてね。ちょうど20歳のころでした。テーマミュージックがクインシー・ジョーンズによるもので、音楽のすばらしさに目覚め、ジャズにはまりました」
以来、LPレコードを収集。オーディオにも夢中になり、その蓄積がこちらを象っているのだ。
「かけるのはレコードだけで、そうしたレコードには同時代のオーディオがよく合うと思っています。現行品のアンプですとフラットになってしまうので、アナログ時代のアンプを使っています」
開店当初はおでんをメインに。今は季節に応じた酒肴として「たこのやわらか煮」「にしん茄子」「うなぎの柳川鍋」「ロールキャベツ」、はたまた「煮込みハンバーグ」など、さながら小料理屋さんといった感。ジャズ好きならずとも通いたくなってしまうのは、料理担当・橋本さんの奥さま、つまり女将さんのなせるワザだ。
「感謝しかないですよね(笑)。昼間はずっと仕込みをして、注文が入ると仕上げる。接客も頼もしい限りです」
内助の功は、じつはスピーカーにも表れている。現行品にはない、薄いグレーが存在感を放つ「4320」は、結婚時のお祝い金で購入したそうだ。
「お金があるうちにいいものを買いましょうとなりまして(笑)。思い切って最上位機種にしました」
大阪のオーディオ専門店にトラックで向かい、その日に持ち帰ってきた。「4320」は、当時、発売されたばかりで、一般家庭にはオーバースペックなスタジオ2wayモニターだ。もちろん高価なのは言うまでもない。お金の件は先述の通り。
かねてより憧れのJBL、当然、期待値も高かった。しかし当初からパーフェクトな音だったかというと‥‥
「いえいえ。高音域がキツくて試行錯誤しました。オーディオにも車と同じように慣らし運転が必要なんですね。FMラジオの"サーッ"というホワイトノイズをずっと流し続けました。あれから45年近く使っていますが、いまだに年々、よくなっています。なんと言っても空気感が素晴らしい。いいレコードはとことんいい音で聴こえます」
ところで「4320」にはロゴマークは入っていないが、橋本さんの「4320」にはしっかりと! あれ? と思い近づくと‥‥、それはステッカーで、「知人にもらった(笑)」とのこと。そのほかにも、店内からはJBLに惚れ込んでいることが、そこかしこから伝わってくる。
そんな橋本さんに、もっともバランスよく聴こえる席を尋ねると、カウンターの右端をすすめられた。スピーカーの中央に位置し、距離もちょうどいい。けれどもカウンターに向かうと「4320」は背後になってしまう。もちろん後ろから聴こえてくるのもいいのだが、正面を向いて聴きたい、という欲求も出てくるはず。ゆえに、椅子はクルリと回転するタイプを採用している。
さっそく、アルネ・ドムネルスの『Jazz at the Pawnshop』をかけてくださった。ライブ盤ならではの臨場感--グラスが触れる音や客の拍手、咳などがリアル、かつナチュラルに感じられる。とかくジャズ喫茶というと"大音量に覆われる"のであるが、あたかも目の前で演奏されているような感覚を覚える。
ほかにもフランク・ウェスやズート・シムズなど気に入りのサックスプレイヤーをかけてくださった。レコードプレイヤーは2台。1枚が終わっても途切れることなく、次の盤がまわりはじめるのも心地よい。
さらに橋本ワールドが続き、「ボーカルの再現性もかなりいいんですよ」とジュリー・ロンドンの『at home』を。「ジャケットも素敵でしょ。どこから眺めても、彼女と目が合うようになっているんです」と、さすが元・写真家ならではのコメントも心憎い。
橋本さんにレコードのこと、ジャズのことを伺っていると、あっという間に時間が経ってしまう。そこそこ若手の常連さんが多いのも、わからないことを的確に教えてくださる、橋本さんの器量にあるのだろう。また、お客さんが自分で購入したレコードをかけてほしいと持ち込むこともあるそうだ。
レコードとジャズが織り成す空間で、年季の入ったシングルモルトを舐める。レコード棚とレコードプレイヤーの側で、橋本さんが煙草をくゆらせる。そのときの店の雰囲気--お客さんの層などに応じてかかるレコードは変わり、時には饒舌、時にはしっとりと‥‥とさまざまな顔を覗かせる。
「ジャズは人生を支えてくれるもの」。そんな橋本さんによる憩いの空間に、どっぷりと身を委ねてみたい。