九州で最大の繁華街・福岡市天神。その中心部に位置する警固神社にほど近いビルを地下へとエレベーターで降ると、そのドアが開いた瞬間、「BAR HEARTS FIELD」のシックな空間が広がる。前方の壁面には、時間の流の中で壁や梁と一体化したかのような「D30085 Hartsfield」。1990年のオープン時より店長を務めている笠井祐二氏は、「スピーカーがどこにあるかわからないお客さまもいるんですよ」と笑う。
「以前あった『Casey's』というバーボンバーが賑やかになってきたことから、『少し落ち着ける店を』ということでオーナーが新たにオープンしたのがこの店です。『Casey's』は5年ほど前に閉店してしまいましたが、その流れを汲み、ここでもバーボンやスコッチなど、ウイスキーを中心としたお酒を提供しています。丁寧に水割りをつくるように心がけているのも、この店のこだわりのひとつです」
7割以上の人が注文するという人気メニューは、この店オリジナルの樽詰めスコッチ。訪れる客は40歳~50歳代がメインで、グラスを傾けながら会話やそれぞれの時間を楽しむ。サロンをイメージした店舗の中には、英国をはじめとする海外のアンティーク家具が並ぶ。
「開店当時から足を運んでくれている人も多く、お客さまも私も、この店と一緒に年齢を重ねています」と語る笠井氏。『Casey's』で学生時代にバイトを始め、この店の店長を務めて30年近くの歳月が流れた。笠井氏は、これからも「BAR HEARTS FIELD」と、そしてこの店を愛する人々とともに、多くの時間を重ねていく。
同店で使用しているのは、綴りは異なるが店名の由来にもなっている「Hartsfield」(ちなみに店名は、「心のフィールド」という意味も込めたとのこと)。1950年代半ばに発売されたスピーカーシステムで、多くの劇場でも使用されてきた名機だ。長時間聴き続けても、決して疲れない柔らかなサウンドが、このスピーカーの特長だと笠井氏は語る。
「たまにほかのスピーカーの音を聞くと、やっぱり『Hartsfield』はひと味違うなと思いますね。ボリュームを上げても会話の邪魔にならないと、お客さまもおっしゃってくれます。たとえば、ベースなんかでもゴリゴリした感じに聴こえない。柔らかなヴェールを纏っているような、優しくて柔らかな音だと思います。かつての『Casey's』で使っていた『PARAGON』のほうがインパクトは強かったけれど、この『Hartsfield』のサウンドは、とにかくソフトだという印象ですね」
現在は使用していないが、本来、「Hartsfield」の優しいサウンドには、真空管のアンプがマッチするという笠井氏。ジャズはもちろん、ファンが持ち込んだ中島みゆきや山下達郎の曲をかけたときも素晴らしかったと笑顔を見せる。
「誰かが持ってきたSMAPのCDをかけたときも、あまりにいい音なので感激しました。このスピーカーは、最初から今まで何も変えることがなく、時間を積み重ねてきました。これからも、今のままのサウンドを聴かせてもらえたらと思っています」
店舗にあるレコードは500枚、CDは300~400枚で、60年代初頭までのモダンジャズが多い。コルトレーンやマイルス・デイビスのほか、ピアノやサックス、ボーカルなどをジャンル分けして管理し、そのときの気分でかけているという。
「インストゥルメンタルが続いたときなどは、途中でサラ・ヴォーンなどのボーカルものを入れたりして、飽きが来ないような工夫も施しています。いつもいらっしゃるお客さまの好みは把握しているので、そのときの客層を見て選曲しています」
この仕事をするようになってジャズに魅了されたと語る笠井氏。何より、その懐の深さに惹かれたとのことだ。
「昔の曲がいいですね。レッド・ガーランドなども好きです。ジャズは聴き流すこともできるし、じっくりと聴き込むこともできるところが、バーのBGMとして最高だと思っています。さらりと挨拶するだけでもいいし、一緒に飲みながら話を聴いてくれる相手でもある。ジャズは、そんな飲み友達みたいな音楽なんです」
開店当時から、変わらずに時間を重ねてきた「Hartsfield」。笠井氏は、これからも今のままのスタイルを続けていきたいという。
「転勤になっても、出張の際に立ち寄っていただけるお客さまもいますし、『私が定年になるまで頑張ってくれよ』と言ってくださる方もいます。何かを変えようとは思っていません。このスピーカーと私の体力が続く限り、今のスタイルを続けていきたいですね」
「Hartsfield」が柔らかく奏でるジャズに包まれ、ここだけの時間が流れる「BAR HEARTS FIELD」。今夜も笠井氏は、いつもと変わらずにグラスを磨いている。